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歴女が教える!姫路城デートの魅力【見所・歴史・撮影スポット・城主の逸話】

投稿日: 2018年07月24日

執筆者: しろまるひめ

姫路城は国宝に指定され、世界遺産に登録されています。黒田官兵衛が建て、羽柴秀吉が居城にし、池田輝政が今の形に完成させ、本多忠刻千姫のコイバナもあるという、歴史上の超有名人が関わったお城です。

どの角度から見ても素晴らしく美しく、最近では色々な映画の撮影に使われたスポットも多いです。歴史や映画についての話題が尽きることはないでしょう。

歴史の好きなカップルには、絶好のデートスポットではないでしょうか。

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姫路城へのアクセスと撮影スポット

姫路城へ行くには、JR姫路駅からまっすぐ北へ徒歩約20分です。
発掘調査の遺構を元に平城19年に作られた桜門橋を渡り、大手門を入ると三の丸広場が広がっています。
ここに城主の居城があったのですが、明治時代に焼失しています。

姫路城で残念なのは、城主の居住跡がなく、侍たちが勤務した場所もないというところですが、そこは想像で補いましょう。

左の方の道を行きます。並木はすべて桜なので、満開になると素晴らしいです。

姫路城の満開の桜

尚、左手に土手があり、坂のところを上って行くと千姫が住んでいた武蔵野御殿跡です。
今は「千姫牡丹園」となっていて、4月末が見頃です。

さて、拝観料1000円を払って、菱門を入りましょう。
入ったとたんに、天守閣と小天守の絶好の撮影スポットがあります。

姫路城 天守閣と小天守

遠くから見ると美しいが近くで見るとそれほどでも、という名所もありますが、姫路城は遠くからでも近くからでも、どの角度から見ても本当に美しいです。

左の坂を上って、西の丸へ行きましょう。
この西の丸からの天守閣小天守も撮影スポットとして人気です。

姫路城の成り立ちとまつわる歴史

姫路城のある場所は播磨の国と言い、播磨国風土記も残っている、けっこう古い土地柄です。

播磨国風土記によると、姫路城のある姫山は日女道丘(ひめじおか)と呼ばれていて、蚕(ひめ)が流れ着いたというかなり古い由来があります。
姫山には、もとは南北朝時代の赤松氏に遡って城があったということです。
ここを居城にした黒田官兵衛は、御着に本城がある小寺氏の家来でしたから、姫路はその頃はこの辺一帯の中心地ではなかったのですね。

黒田官兵衛が招聘した羽柴秀吉が、姫路城の基礎を築き、城下町として整えた後に、池田輝政がこの城を完成させたのです。

池田輝政が亡くなり、その後に城主となったのが、徳川家康の家臣本多平八郎忠勝の息子の本多忠政です。

本多忠刻と千姫にまつわるエピソード

忠政の夫人は家康の長男信康の娘ですが、その間に生まれた忠刻が、豊臣秀頼の夫人で大坂夏の陣から助け出された千姫と結婚しました。

忠刻は家康と織田信長の曾孫になり、千姫は従姉の子と結婚したことになります。

誰も言わないけど、忠刻はものすごいサラブレッドだと思います。
千姫は秀忠とお江の方の娘で、お市の方の孫にあたるので、忠刻とは、父方からも母方からも親戚同士になるんですね。

千姫は10万石の化粧料(持参金)を持って来たので、この西の丸が作られました。

本多忠刻は、かなりのイケメンだったので、桑名で会った千姫が恋をして結婚した、ということになっています。
たしかに忠刻は、美形と言われる織田家、まして信長の曾孫でもあり、宮本武蔵の養子について剣術の修行もしたと言われる体育会系のイケメンだったようですが、千姫が望んだというより、忠刻の母熊姫(ゆうひめ)が、ぜひ息子の嫁にと家康に頼んだという説もあります。

とにかく千姫は、この城で10年の幸せな結婚生活を送りました。

忠刻との間に一男一女が生まれましたが、男児は早世し、忠刻も30歳で亡くなった後、千姫は娘を連れて江戸に帰り、弟3代将軍で弟の家光の庇護のもとに、家族や親せきから尊敬され厚遇されて生涯を送ったようです。

千姫の娘勝姫は、家光の養女として、池田輝政の孫光政と結婚しました。

現在残っている化粧櫓の窓から、千姫が作らせて毎日拝んでいた男山天満宮が見えます。

化粧櫓の窓から見える男山天満宮(千姫天満宮)

今では千姫天満宮と呼ばれていますが、ここから撮った写真を待ち受けにすると恋が叶う、パワースポットと言われています。
カップルの方は忘れないように写真を撮りましょう。

またこの化粧櫓は、長局、お城に使える女中たちの住まいであったようで、よく見ると小さな部屋がたくさんあり、百閒廊下で繋がっています。

いつもここへ来るたびに、この女中たちの生活ぶりとかを解明して展示されればいいのにと思うのであります。

狭い急な階段の上り下りなので、頭の上も足元も最善の注意をしてくださいね。
この化粧櫓と天守閣では、靴を脱いで建物に入ります。城内もかなり歩くので歩きやすく脱ぎやすい靴と汚れてもいい靴下の着用をお勧めいたします。

尚、池田輝政の二度目の夫人も家康の娘督姫で、本多忠政の夫人も家康の娘です。
家康の孫の千姫は有名ですが、姫路城の完成に関わった人の夫人たちが徳川家の出身ばかりというのも、こんな大きな城になった意味があるのではないでしょうか。

姫路城は女性が多くかかわるお城

そして時代は下がって、徳川家斉の娘喜代姫を正室に迎えたことで、幕府から、窮乏していた藩の財政援助を受けることが出来た酒井忠学(ただのり)という城主もいます。妙に女性が関わるお城ではあります。

そのせいかどうか、姫路のミスコンでは毎年3人の「お城の女王」が選ばれて、5月に行われる「姫路お城まつり」ではパレードに参加したり、親善大使のようなことをされています。

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姫路城の見どころと歴史的役割

西の丸を出て歩くと、どこかで見たような坂道を登ることになります。
左手に射撃用の窓、狭間(さま)と呼ばれる、丸や三角の穴の開いた白壁が続き、見上げると天守閣が見えるこの坂道は、よく江戸城登城シーンとして時代劇のドラマなどで使われています。
ここも格好の撮影スポットですよね。

江戸城登城シーンとして時代劇で使われる姫路城の風景

そして、天守閣へ向かうのですが、案内板に従って歩くと何とも思わないのですが、よく考えると、くねくねと狭い道を通り、まっすぐに天守閣へ行けない構造になっています。
これは敵が攻めて来た時のために、大勢が一挙に通れないように、迷うようにそうなっているのだと解説されています。

同じように石落としや色々な敵が来た時のための防御策がされているけれど、ここまで敵が入ってきたら終わりじゃないかな、と思うのであります。

最近はミシュランの観光ガイドでも星が3つついているなどで、外国人観光客も多く、色々な言語が飛び交う姫路城ですが、混んでいるときは、天守閣の入場制限があり30分待ち、1時間待ちなどのこともあります。

朝9時開門なので、はやく行くと余裕をもって見学できますよ。

いよいよ天守閣へ入るところでは、間近での天守閣を見上げるのも迫力があります。

 姫路城 -世界文化遺産・国宝-

天守閣は6階あり、上る階段と降りる階段は別になっています。
でも狭くて急なのでお気を付け下さいね。
登るにつれて階は狭くなり、最上階に上がると、瀬戸内海や家島諸島まで見渡せてかなり爽快な風が吹いて、結構な達成感があります。
ここには長壁(刑部)大明神が祀ってあります。
宮本武蔵の妖怪退治の話は有名ですが、とてもご利益がありそうな神様ではあります。

なぜかと言うと、姫路城は、結局作られてから今日まで、実質的に戦闘に使われたことはないこと、この姿を今に至るまで残せたという経過を考えるとそう考えざるを得ません。

羽柴秀吉は、ここを居城にしていたときに、備中高松城水攻めの最中に本能寺の変を聞き、中国大返しでここまで必死で帰って来ました。
そして秀吉はこの姫路城から出発して、明智光秀を討ち、天下人として歩んだということで出世城と呼ばれているのだそうです。

江戸時代は江戸幕府の仮想敵国である、薩摩の島津、長州の毛利などを見据えて、西の鎮守と言われました。
なので、城主が亡くなり、後継ぎが幼いと転封され、何度も城主が変わっています。

親藩や譜代大名で15万石だったのですが、それにしては城が大きすぎて、城の維持がかなりの負担になったということです。

幕末には老中酒井雅楽頭の居城であったため朝敵とされて、岡山の池田家から砲撃されたのですが、奇特な豪商の新政府軍への献金で攻撃を免れました。

また明治になって日本各地のお城が次々と廃城になったときも、姫路城は何とか逃れて陸軍省の管轄になり、太平洋戦争では姫路の市街地が空襲で焼け野原になったのにもかかわらず、お城は焼け残りました。
天守閣に焼夷弾が撃ち込まれたが、不発弾だっということです。

こういう経過があって、明治、昭和、平成の大修理も行われて、今に至る真っ白な姫路城なのですが、そういう歴史を知ってか知らずか、パワースポットとされています。

また、姫路城は映画やテレビの撮影もウエルカムらしく、色々な映画やテレビの撮影が行われています。

古くは映画「影武者」、「ラストサムライ」そして最近では「関が原」などが、テレビでは大河ドラマの「武蔵」や「軍師官兵衛」など、姫路城へ来られる前にご覧になると、どこで撮影したかがわかって、話が弾むのではと思います。

姫路城の拝観後には、お城の周辺を回って、色々な角度からご覧になるのもおすすめです。桜の咲く頃は、とにかくお城の周辺一帯が桜の花でいっぱいになり、それはそれは美しいです。

ぜひ、歴史について語りながらのデートをお勧めします。